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何かしら拒み、結果的発散に鼻白む季節へ


何かしら拒み、結果的発散に鼻白む季節へ


もっぱら一途に盲目となり、鼻からの小川のせせらぎを煩い、消費と浪費が堆積されてて、ああ屑篭は山積みの隠喩、白の巨塔で崩壊寸前。これ以上にクシャミをくしゃむものならば、自分はきっと、果たして阿呆になって仕舞う、もはや痴呆になりかけて現在、そう思われるほどに額がぼーっとしてきた頃合いに、物憂い学童向けのチャイムが、遠方よりやってきて耳にゴーンと響きわたり、時間軸をあっと反転、逆転させる麗らかな白昼。それにまかせた今さらに思うに、現実が嫌いであった幼少の時分から自分はね。常に空想へと自意識を向かわせていて、空想少年という有様、いつの世も少年とは大概そんな生き物で、それは低い場所からずり落ちるような逃避というよりかは、独りガンプラを迫真に戦わせているような断絶空間の存在であった。親の都合により転校した結果が嫌なものだったから、学校生活の嫌々がみるみると、読んで字の如く厭々という感じに転調するのが怖くって、積極的に変顔をつくっては周囲の生徒を笑わせてみたり、バラエティ番組を研究しては翌日の会話に備えて余念がない夜が明ける毎朝の、あの辛うじて光りを含ませているような、灰空が自分を圧迫していた。定められた冷めた給食より何より、下校途中が好きだったのは、その日一日の鬱憤を身体の外にどろどろと吐露する道々な行為に没頭できたからに違いなく、自分の場合はそれが独り芝居というものであって、よくやったのは例えば、心臓病にかかった自分の死ぬ直前のあれやこれ。肺の片一方で苦悶する人など。そもそも田舎というのを嫌悪したからこのような事態になっているのだけれども、歩いても歩いても人とすれ違わない村って素敵!などと、そのときは都合よろしく思ったもの。メタフィジカルな痛みというのはときに、フィジカルなものとして体感するとは大人の噂に聞いていて、それが自分にも該当するのを知ったのは恐らくはこの時が始まり。そうは云っても心臓でなくって、実際は肋骨あたりがひたすらに痛くて、痛くてそれでも芝居はやめずに歩いて、歩いて坂をのぼり喘いで、坂の途中でよろけるように土手に倒れ込み一言、「もう死む‥」と虫の息を空に放つ。それは夢十夜の女の如く、まさに死ぬぜの様子もないし、この痛みを生み出したのは唯一本人、自分でありながらもはや制御できないこの不思議。自宅まであともう僅かという帰路で、蛇や蛙や蚯蚓や蜥蜴の干乾しが、風にそよそよ吹かれていたこと、一面の蒲公英の黄色が見飽きれば沢庵でしかないこと、首だけの地蔵に痛覚を刺激され眼を瞑るメメントモリ、蜂の羽音に戦慄し手に汗じっとり瞠っていたこと。ああ青葉の舟にのせて、自分が流した幾筋の涙は本物であった。懐古趣味などというセンチメントは痩せた野良犬がスタスタ咥えていったけれど、貴奴だってこの先、歩いても歩いても世の中の全体などを見た気にはなるまいと思って。灯りがあれば立ち止まり現在地をそっと前足で堀り、顎をひらいてその穴のなかに、涎にまみれた悲しみを埋めるその姿、哀愁。果たして自分はちょうど昨日そのうえを歩いたはずなのだけれど何も躓きはしなかったから、このつまらない掌が憎い。そのうえに載せた本日の一文字。数回のクシャミで中空に散り、或いは包まれる塵紙のなか、それは丸くなった淋しさに押されてて、目的を忘れ僅かに元に戻ろうとするもの。非情緒。



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